千葉県内を電車に乗って移動が出来ない、路線バスでも無理なところに、普段は通らない距離の間がありました。地域は東京へのなになに通勤路線沿いで、共通の居住空間として分けたりもします。

千葉ニュータウン中央駅に降ります。印西、白井、船橋が接するところは新しい街ですが、見ると1966年に千葉県が開発を始め、1978年にUR都市機構が参画しています。上野、日暮里から成田空港に最短で電車で移動するルートで、車道も線路沿いに並行に2つの道が走っていますが、車では東京から鎌ヶ谷まで高速移動できないので、東京の人はこの道はあまり使わないと思います。

昼食の後、ニュータウン大橋を通り水辺の上を渡りますが、一帯は北総花の丘公園。総面積は50ヘクタールあります。橋を渡り切った公園の入り口から向こう側に見えた花と緑の文化館は、全面ガラス張りの温室をイメージしています。今日の時点、ヤマザクラと陽光桜が満開になっていると伝えています。

交差点を曲がり大通りから脇に入るところにバプテスト教会があります。ここからゴールに近づくまでの道は民家の間や水辺などの細い道です。先程、昼食の時の1枚しかなかった1000円札を使ってしまったので、スーパーでコスパでない缶のお菓子を買いクズしました。自動販売機しかない様に思えます。

民家の間を歩いて行くと谷津で低くなっている里山があり、結縁寺に出ます。奈良時代の神亀年間(724-729)、行基(東大寺の大仏を建立に携)によって創建された名刹です。銅造不動明王像(1303年、重要文化財)があり、左の上牙で下唇を噛み、右の下牙で上唇を噛んで(公開日あり)います。彼岸花や蓮の咲く時期も綺麗ということです。

治承の乱を起こした以仁王と源頼政(平氏政権下での源氏の長老)は宇治平等院で戦死してしまいます。頼政の首を家臣が携え名馬に騎乗して東国へ向かい、馬が歩けなくなったこの地に埋葬されます。結縁寺から少し歩いた位置に頼政塚があります。歴史的には、以仁王の令旨で諸国の頼朝や義仲などの蜂起に繋がります。

大地とその合間を縫う水路と田圃を通り印旛沼新川の方角へ向かう途中、畑が発掘調査によって、角く切り取られていました。その近くに火皇子神社があります。敷地が鳥居から細く真っ直ぐになっていて、境内が木々に挟まれています。春の様な暖かい日でしたが、温かいコーヒーを自動販売機で買いました。電子マネーが使えました。

印旛の低い土地に道が入りました。護岸がコンクリートのところが多いですが、新川の脇を流れる用水路も表面は土でしたし、阿宗橋を渡った進行方向は護岸されていず、ブラックバスやヘラブナの釣り人の姿もありました。川を渡って八千代、佐倉に入ってくると農地の大草原の中で、風を身体にまともに受ける感じで、気分的にはホームスタジアムであるとか、何か上手く説明できないものでした。

先崎城跡(しまっさき)と地図にあって、こちらを目印にしてきました。鷲神社へ裏のほうから入りました。大きなケヤキの御神木があります。御祭神は天日鷲神(あめのひわしのかみ)で、承平7年(937)慈恵僧正が朱雀帝の勅を奉じたことが始まりとなっています。

後は家路に、駅に夕刻向かうことになっていました。途中、農家さんの育てるクレマチスの苗が沢山で、芽吹いていました。枯れ枝からや根元から春に芽を出します。今度タネから育ててみようと思いました。スマホの地図をバックパックにしまってしまって暗くなった時間歩いていると、中学校(駅)のはずが(和洋)女子大(駅)まで長く歩きました。山万ユーカリが丘線は1周サークルを回って、(京成)ユーカリが丘駅に戻ります。

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