夏の陽射しがきつくなった最初の日、嵐山(らんざん)町に訪れました。人が混み合っていない道を、徒歩で廻る、密を避けた楽しみ方もあります。ただ車を駐車場に泊め、昼食後向かった鬼鎮神社への道は民家の間を通ります。その間中、直射日光に当たり、暑かったです。

福はうち、鬼はうち、悪魔そと、と節分には赤鬼・青鬼が豆まきをします。社殿には幾つもの鬼瓦が飾られ、太鼓の横には鬼の像が置かれていますが、女性に見えます。賽銭箱の隣にある金属の枠の中には金棒が立て掛けられていて、大願成就の際に奉納するということです。鬼鎮神社は1182年、畠山重忠が住む菅谷館の魔除けとして創建されたのが始まりと言われています。

武蔵嵐山駅に戻り、駅舎のベンチで炭酸飲料を給水・休憩した後、駅の反対側に向かいます。おおむらさきの森、を探しているとまだ半分ぐらいの地点にいて、都心近郊の感覚からすると、次に向かう先へは大分距離があります。

菅谷神社は畠山重忠が、近江国日吉山の日吉山王権現の御分霊を、武運長久の守護神として祀ったのが始まりとされます。道を挟んだ向いの池には辨天橋が架かる、厳島神社が鎮座します。畠山氐が居住した菅谷館はここから600mの距離にあります。畠山重忠は源頼朝の有力御家人で、一ノ谷の鵯越の逆落しの際には、愛馬三日月を背負って降りたという怪力と思いやりのある逸話が有名です。頼朝が亡くなった後、北条氏の陰謀により42歳で亡くなっています。

嵐山町の歴史に残る人物としては、木曾義仲も知られています。今回の訪問では鎌形八幡神社までは足を伸ばせなかったのですが、そちらには木曾義仲産湯の清水があります。父の源義賢は兄、義朝に攻められこの地で亡くなってしまっています。2歳だった息子の義仲は信濃国へ逃げ延びています。

おおむらさきの森への入り口を大分行き過ぎてしまって、大妻中高のグラウンドから300m位来た道を、直射日光に照らされて引き返す必要がありました。入り口は菅谷館。暑い陽射しが当たらない涼しい木陰を歩きます。雑木林が1.8haあり、オオムラサキの姿も見られるということですが、私がいた短い時間では見られませんでした。75円切手の図柄になった翌年の1957年、オオムラサは国蝶に選定されます。この日、森の中にある活動センターはコロナ休園中でしたので、道を先に向かいました。

森を通り、草原を抜け、夕方で暑さの和わらいだ時間、嵐山渓谷の方へ向かいます。車が割と行き来する県道を交差し道標の指し示す方へ歩いていくと、案内板から山頂まで15分。本日既に歩いた脚ですが、大平山に登って行くことにします。上り坂では喉も渇きました。県道から入ってくるところに最後に自動販売機がありました。登る時すれ違ったカップルは楽しそうな様子です。

上がって行くと景色が見渡せる高いところにあずま屋とベンチがあって休憩。頂上と思い長い時間留まります。望遠レンズも駅近くに泊めている車から戻る道、取ってきていたので、遠くを眺めます。鳥が3匹くらい旋回していたので、小さく写真にも写り込みます。休んだ後、日暮も意識してベンチから立ち上がると、山頂への道標に気が付きます。ちょっと考え、嵐山渓谷へと下り坂を降りて行くことにします。

京都の嵐山に似ているかどうか考えながら下った先は、木々に覆われていて水辺があまりよく見えませんでした。嵐山渓谷展望台とトイレと休憩所。自動販売機はありませんでしたが、水飲み場の蛇口がありました。ペットボトルは殆ど空になっていたので、口から充分飲んだあと、湧水を詰め込みました。展望台からも隙間から流れる水が見える感じで、川の流れはここからは分かりにかった感想です。

水辺に近づけない川沿いの道を歩いて行き、灌水橋への道へ入ると今度は水辺に近づけます。橋の名前は配られいるガイドマップに載っているのですが、名前がある立派な感じというより、意外と普通の木の橋でした。いつ頃までかの昔は、京都の渡月橋も自動車は渡れない木造だったのを思い出します。東の嵐山の流れの真ん中に立ちます。

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