暮らしの形跡

社殿や神宝を一新し若返る、いつまでも瑞
々しく、変わらない姿があります。
そこには常若の思想がうかがえます。

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伊勢神宮第62回式年遷宮を機に神社の
宝物や日本の神々に関する文化財、神道美
術を総合的に展観する、かつてない規模での
展覧会、国宝大神社展が開かれました(ます)。

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神々には殿内に人が住んでいるのと同じよう
に神殿が造られ、祭神の装束や身の回りの
調度、武具が用意されました。神々の服飾
調度類の工芸品を神宝といって、それらの
ものが新調のもと時期に造り替えられます。

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全体としてここのページで紹介・提示でき
る分量ではなく、東京国立博物館では終了
してしまいましたが、九州国立博物館でも
これから展示されますので、古神宝や伝世
の名品など、一つ一つ細かく見られるとい
いと思います。

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沖の島出土の子持勾玉(まがたま)です。
並んでいるのは親子ではなく2つです。
子持勾玉は弧状に湾曲した親勾玉の周辺部
に複数の小さな勾玉が付いたものを指しま
す。海外との接触が盛んになると大海原へ
と漕ぎ出す海の民(宗像氏)が現れます。
航海安全を祈願する国家的祭祀へと昇華し
ました。沖の島の祭祀遺跡は海の正倉院と
称されます。

仏教伝来以前から自然や精霊を崇拝してい
ました。山や岩、海や川、森や草木にさえ
も神を見出し、畏れ敬ってきました。また
"古事記"、"日本書紀"、"延喜式神名帳"な
どの文献資料とともに、神社で祭神が祀ら
れはじめた頃の様子が紹介されています。

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日本書紀は舎人親王を総裁として720年に
完成し元正天皇に献上されたわが国最初の
勅撰の正史です。こちらは14巻分の写本で
熱田神宮に奉納されたものです。日本書紀
は古事記とともに壬申の乱に勝利した天武
天皇の修史事業によるもので、天地の始ま
りから持統天皇までを正格の漢文で記して
います。その少し前の712に稗田阿礼が読
み方を記憶していた物語("帝紀"、"旧辞")
を太安万侶が編纂し献上したのが古事記です。

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裏面の銘文から、この舞楽面(ぶがくめん)
は平家一門が海上の守護神として崇拝した
嚴島神社に1173年に奉納されました。嚴島
神社の社殿は1168に平清盛により造営され、
その4年程前には"平家納経"が奉納されて
います。

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斎場御嶽(せーふぁうたき)は沖縄本島の南
部、南城市にあります。第二尚氏の祭祀の場
です。海の彼方に神々の住む楽土ニライカナイ
から神が来訪して豊漁・豊穣をもたらす信仰
が広まり、御嶽がその神々を招き入れる祭祀
場です。斎場御嶽は古来より琉球王国の最高
位の神女である聞得大君(きこえおおきみ)
の就任式"御新下り(うあらうり)"が行われ
る場所です。巨大な岩盤が割れて巨岩が傾き、
三角形の洞穴のような通路からなり、その先
の三庫理(さんぐーい)から、アマミキヨ
(琉球開闢の神)が上陸した久高島を遙拝で
きます。

仏教美術では仏・菩薩の像が主役ですが、神道
美術(絵画)では自然物を対象とした神体と
なる山や周辺を含む神域の風景が主役となり
ます。

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石清水八幡宮での"くじ引き"により還俗し、
第六代将軍となった足利義教が誉田八幡宮に
奉納しました。鎌倉公方の足利持氏を滅ぼし、
自身は嘉吉の乱で赤松満佑に殺されてしまい
ました。不安定な政情を抱えていて、武神と
して霊験あらたかな八幡神への報恩と加護を
願った、絹本の奉納絵巻の一つです。

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豊臣秀吉の7回忌にあたる慶長九年(1604)の
8月12日から18日に催された豊国神社
臨時祭礼です。方広寺大仏殿が威容を誇り、
15日最大の見せ場、上京・下京五組五百人
による風流踊りが大きく描き出されています
(大仏殿:慶長七年回禄に帰す?)。右隻に
は秀吉を祀る霊廟と豊国社の様子が描かれて
います。豊臣秀頼の依頼で豊国社に奉納され
たと記されています。

神や祖霊などを慰め、鎮め、奉仕して、その
威力による加護を請い、平和や豊産を期待・
感謝する行為が祭礼です。

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宮地嶽神社(福岡県)境内に所在する直径
35メートルの古墳から出土した金銅製壺鐙
です。各部分を鋳造して、鋲留によって接合
していることがX線によりわかっています。
ここの長大な石室は飛鳥の石舞台古墳と並ぶ
規模です。

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両胸前に垂らす髪は額髪といって、女性が成
人する際に鬢先髪を切る鬢除(びんそぎ)に
よって整えます。衣は上から袿(うちき)、
単(ひとえ)、小袖を着けるとみられ、単の
上から帯紐を結びます。両部や何気ない仕草
に若い女性の華やかさが感じられますが、額
に皺があり中年期以降とも。

神像がつくられ始めたのは8世紀のことです
が、9世紀末になると、脚部の奥行きがない
神像独特の表現が確立します。平安後期にな
ると宮廷女性を思わせる優雅な作品も造ら
れます。神像には子供の姿が現されるのも特
徴です。

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金泥線の効果とあわせ、その神々しいまでの
姿は、威厳ある童子形の神のかたちを表しま
す。若宮の着す装帯は鎌倉期に流行した
"強装束(こわそうぞく)"を映して、全体に
直線的であり、堂の部分はやわらかな線で、
また重量があり、生身の身体感覚を見る者に
強く訴えます。表現は仏画を得意とする絵師
の手というよりも、大和絵に熟知した絵師の
手と推察されます。

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古来馬は神の乗りものとされ、神霊を和らげ
祈願するために馬を捧げる風習があり、神馬の
献上が行われました。格式の高い神社では神馬
舎を建て、飼われていました。室町時代頃に遡
る遺例は限られていて、同じ時期の同じよう
な六面の蒔絵絵馬が、東北地方に集中して伝
っています。

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