美しかった水辺の景色。
手賀沼を
アサヒグラフで広く紹介してから
30年あまりで、一変してしまった後。
その辺りの印象が強く、私も子供の
時分、釣りに行き、鯉、鮒、てながえび
など実際に釣り上げましたが、
汚い湖沼ワーストという汚名からの
浄化、環境の回復という道半ばと
なっています。
アサヒグラフを創刊し、手賀沼を紹介した
杉村楚人冠は明治から昭和まで活躍した
国際ジャーナリスト。もともと別荘として
使ったいた我孫子の地に関東大震災後
引っ越してきました。
独特の皮肉、ウイット、風刺に富んだ
自由主義的社会批評で、論文、小説、
社会批評を発表しました。
彼の後に、時が流れて、
ここの自然環境がこうなってきて
しまったら、どう写真に撮って、
批判を展開したのか。
さらに現在に至った朝日新聞について、
独特の皮肉、ウイットをもって、
批評を展開する気概をもった記者
が出てこないといけない気がしました。
我孫子は江戸時代、水戸街道の宿場街とし
て、小金宿と取手宿の間に位置しました。
明治時代に入ると、岡谷市に本社のあった
山一組製糸工場ができ、その生産高は
業界でも4位でした。我孫子には約300名の
女工が働き、東葛地区でも有数の工場
でありました。
明治29年に常磐線の前身、土浦線が開業し
たのに伴い、我孫子駅が開設されます。
明治34年には成田線、我孫子ー成田間が
開業し、成田詣での中継駅の、また
青森行きの夜行列車のお弁当を買う駅
でした。駅弁の店の弥生軒には青年時代
の山下清が寄宿し、彼の絵は駅弁の包装
になりました。
大正時代に入り、雑誌白樺の中核となった
柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤など
多くの文化人が集い、また居住していた
時期がありました。白樺文学館、
志賀直哉邸跡、武者小路実篤邸跡が
現在も残っていて、大正ロマンの面影
が残っています。
志賀直哉の和解に登場する大光寺です。
創建は室町時代に遡ります。
講道館柔道の創始者で教育家の
嘉納治五郎の別荘跡で、甥の
柳宗悦を別荘に招きました。
その柳宗悦の住居、三樹荘跡
です。
うっそうと茂る木々で囲まれた
杉村楚人冠記念館が母屋跡で
公園となっている楚人冠公園
が住居跡です。楚人冠という号は
中国の故事からで、政府の高官や役人
でもない、いっかいの野人である私が
えらそうに物を書いている、という
ことです。
イギリス人陶芸家のバーナード・リーチ
も移住してきて、庭の一角に乾山窯を
作りました。
トルストイに傾倒し越えようと実戦して
いた武者小路ですが、杉村もトルストイが
日露戦争に反対してロンドン・タイムズに
寄稿した日露戦争論を全訳して掲載し、注
目されました。彼らに接点は分からないの
ですが、ロシア語も英語も出来たのでしょ
うか。この地を白樺派は割と早く去って
行ってしまい、というのもありました。
平和の記念碑
水辺を望む高台に住み
No TrackBacks
TrackBack URL: http://www.melotone.net/sfjournal/mt-tb.cgi/80