茜津(あかねつ)

以前の私たちが江戸に住んでいても、毎日
の食卓に上がるものは東京湾をすくった
だけでは到底まかないきれなかったと思い
ます。その当時、世界ではイスタンブール
に継ぐ人口2位ともいわれた江戸です。

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食べ物を運ぶのは、水運を利用しますが、
利根川、江戸川は水の流れる方向は現在の様
ではなく、その当時は大規模に改修している
途中ですし、改修後も合流点の関宿まで遡
ってから下ってくる川の道は距離と時間でも
結構掛かった様です。蒸気はまだの時代で
した。

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最初の頃は、銚子や常陸から利根川の水の上を
通り、木下河岸から白井・鎌ヶ谷・八幡を経て
江戸川ぞいの行徳河岸までを馬で運びましたが、
ルート的にそれから、布佐河岸から平塚・
藤ヶ谷・金ヶ作を経て松戸河岸に至る経路が
多く用いられるようになりました。

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これらの道筋は「なまみち(鮮魚街道)」と
呼ばれました。
銚子(夕方)~布佐(早朝)~松戸(昼頃)~日本橋(夕方)
...早朝のせりに間に合うように、夏以外は
運ばれました。

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今回、訪れた松戸宿は江戸時代に入ってから、
急速に発展しましたが、その前の戦国時代には、
現在の戸定邸の場所には松戸城があり、
小金の高城氏の出城として相模台や国府台の
合戦の舞台となりました。

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江戸時代には、実在していた水戸黄門。水戸
徳川家には参勤交代は課されていなかったの
ですが、光圀は鷹狩の折に松戸神社にも訪れ、
その時の言い伝えがあります。家臣も頻繁に
江戸との間を往復していたので、御用飛脚も
多用しています。常磐・奥州方面の14の
大名家は参勤交代で水戸街道を使っています。

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江戸に向かって現在の千葉県の松戸から、
江戸川を超えると東京都に入ります。対岸の
金町には関所がありました。日が暮れてしま
ったら、また風が強い日、人の漕ぐ船を出せ
ない時にも、松戸で一夜、かその後数日間、
過すことになってしまいそうです。

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現在は、常磐線がいわき以北まで通っている
途中なので、東京からは日帰りで来られます。
松戸駅のそばでは、水戸藩最後の藩主
徳川昭武が建てた戸定邸があります。
パリ留学など長い海外経験を活かした和洋折衷
のお庭の中に、住居があり、その平面配置や
規模は権力の座を離れた徳川家の、暮らしに
対応した変化を垣間見ることができるという
ことです。

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東京スカイツリーと富士山も、天気が良ければ
一緒に見られます。以前もこちらかアーカイブ
のブログに、確か書きました。

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隣接する敷地には、フランス式庭園、イタリア式
庭園、イギリス風景式庭園、ロックガ-デンなど
がある千葉大学園芸学部庭園があります。散策
するために入って良いのか知らなかったので、
意外と私は初めてでした。園芸学部は全国的にも
ここだけということで、かなり知られているよう
です。通わされている方や留学生さんとも交流が
あります。

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