新進気鋭の蘭を採った城下町

寒くなり始めた頃、千葉県の城下町で
ある佐倉を散策しました。国立歴史民俗
博物館と博物館が立地する佐倉城址
幾つかの美術館には時々訪れてはいたの
ですが、京成佐倉とJR佐倉との、乗り
換えするには遠く、そこに挟まれた佐倉
の街並みを歩いたことはなかったので、
暖かい日には徒歩もいいです。

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佐倉の城下町は土井利勝徳川家康の命
により完成させ、幕府の老中職についた
大名が各藩中最多を数えたことから、
老中の城とも呼ばれました。それ以前の
下総国は、千葉亥鼻城と臼井城、
本佐倉城、鹿島城へと遷り、大堀館を経
て(近世)佐倉城となります。

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京成佐倉駅から幹線道路の上り坂を骨董
品店に見えるものがあったりで登っていく
と左手に佐倉高等学校があります。

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前身の佐倉藩学問所から流れをくみ、数え
て200年以上の歴史があります。明治
33年の移転時に建築された塔やドーム
屋根の木造洋風校舎は記念館として現在
も使用されています。藩校時代の展示と、
我が国最初のヨーロッパ語辞書である
稲村三伯らが完成させたハルマ和解など
の蘭書や洋書群は鹿山文庫として管理
されます。長嶋茂雄選手のユニフォーム
等を保存展示する地域交流施設もあります。

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さらにそこの幹線道路を進んだ方向へ向
かい、道を左手に入っていくと、佐倉
順天堂記念館に着きます。東京のお茶の水
は順天堂病院がありますが、順天堂は蘭医
佐藤泰然が蘭医塾兼外科の診療所として元
は佐倉に創設したものです。順天とは天道
に従う、自然の理に従うことを意味します。

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学問や武術を天保の改革で奨励していた
藩主堀田正睦に、長崎遊学後江戸で外科
開業していた佐藤は呼ばれ、佐倉へと移住
しました。手術ですが、当時の麻酔には
患者の命が失われる危険性があると判断し、
順天堂では無麻酔で行っていたということ
でした。

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そこから街の中の方へ入って行った所に
旧堀田邸さくら庭園があります。
旧堀田邸は最後の佐倉藩主、堀田正倫
邸宅で明治23年に竣工しました。堀田家
農事試験場の敷地を含めると3万坪余りの
広さがあり、明治時代の代表的農業研究
機関でした。

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庭園の設計は巣鴨の伊藤彦右衛門による
もので、眼下の高崎川や対岸大地を借景
にし、芝を中心に松やサルスベリなどの
樹木と景石や灯籠が配されています。
女流画家の跡見花蹊等の絵が引き戸に使用
され、七宝焼の引き手なども用いられるな
ど、それぞれ異なった意匠が使われていま
す。書斎棟の障子格子は一つ一つ面取され、
天井には印度更沙が張ってあります。

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宮小路町の前の通り沿いになったところに
佐倉武家屋敷があります。関東地方最大級
の数の武家屋敷群となっていて、5棟建ち
並び3棟が公開されています。旧但馬家で
は茅葺屋根の全面葺き替えも行われました。

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訪れたのは少し前となりますが、秋の時期に
は萩も見られ、十五夜や十三夜の月見では、
団子やスキと一緒にハギを供える習慣があ
ります。紅葉狩りも楽しめます。外国人も
定期的に開催される甲冑の試着会に参加で
き、成田空港から30分という近さから
サムライの街として人気があります。

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道を歩いて行くと車が通らない上り坂にな
ります。サムライの古径ひよどり坂は武家屋
敷道りに隣接していて、江戸時代からほとん
ど変わらない竹林に囲まれている上り階段
の小径です。隣接した市民緑地にビワなど
を区画ごとに植え、江戸時代以降に植えら
れたとされる木々を原則として伐採し、
武家屋敷の雰囲気に合せた侍の杜として
整備しています。

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印旛沼沿いをレンタルサイクルで日蘭親善
のシンボルのオランダ風車を見ながらそよ
風に吹かれながら走ったりと、でもこの日は
半日仕事で昼食みたいな、楽で気軽な流れ
解散でした。最近では鰐亀の話など、水辺
環境も以外と近所とは違う印象もあります
が、さかななどまた暖かい日、出かけて行
きたいです。

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