2018年10月 Archives

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明治時代に入ると武士を辞めた人、東京に上京して来た多くの人がいましたが、その中にも多くが食にあぶれてしまっていました。新しい土地を開墾するという政府の方針のもと、江戸時代には牧場として使われていた鎌ケ谷に新たに入植者が移り住んできます。千葉県の開墾地には入植順によって、番号の付く地名が付けられています。初富(鎌ヶ谷市)、二和(船橋市)、美咲(船橋市)、豊四季(柏市)、五香(松戸市)、六実(松戸市)、、、、、十余一(白井市)、十余二(柏市)、、、鎌ケ谷市郷土資料館今回訪れたのは最初に入植が始まった鎌ヶ谷市の初富。残りは近隣の市の入植地を列挙しました。農業を始めるというのも、思う以上に大変なこと。鎌ヶ谷のこの辺り一帯は大地が広がっています。手賀沼や印旛沼などの湿地帯は江戸時代に開拓されて水田が広がっています。その時代には農業としてはあまり手が付けられていない残りの土地に、しかも今まで農業をして...
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戦争で傷ついて送られてきた兵隊を看護するために、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222人と教師18人は南風原にある沖縄陸軍病院に配属されました。病院といってもそこは、丘の斜面に横穴が40近く掘られ粗末な二段ベッドが備え付けられていただけの施設でした。3月23日には米軍の艦砲射撃が始まりました。米軍が沖縄本島に上陸し戦闘が激しくなるにつれ、負傷兵は増えつづけ、生徒たちは寝る間もほとんどないまま昼も夜も働き続けることになりました。看護だけでなく、弾の飛び交う壕の外での水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬などの仕事もしなければいけません。ひめゆり平和祈念資料館の前に来て、建物の塀と道路と雲の白さと青空の青の色が、普段私が目にする風景の色とは違っているように思われました。入り口から奥にまっすぐと進むとひめゆり学徒隊の慰霊塔があります。前でお参りしようとすると、たくさんの献花が備えてありま...
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