沖の百万坪

この一帯は以前、漁師の街でした。スズキ、
カレイ、ハゼ、ボラ、イワシ、カニ、エビ類、アナゴ、
と豊かな漁場で、江戸に出荷されていました。
徳川家康は葛西、浦安、行徳地域を天領とし、
塩の生産を保護し、大阪の佃島や和歌山の
漁師を浦安に移住させ
ました。

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埋め立てによって、千葉県浦安市の面積は4倍
になりました。以前は東京に川を挟んで隣接
しながら、今思っても狭いエリアであったことに気が
つきます。埋め立て地はウォルト・ディズニーの
敷地にもなっていますが、現在住宅地になって
いるこの辺りは、海楽円という海水浴場になって
いて、海の家もあったりで、東京からの観光客で
賑わっていまいた。周囲ではハゼ釣りや
潮干狩りも楽しめました。ブルーツーリズムとして
成功していました。

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海の神、大綿津見神として祀られる清瀧神社は
建久7年、1196年に創建されました。本殿は
250年前に村民の積立金で作らた際、上総の
のケヤキ1本から大工の棟梁が建てたもので、
竜宮城、浦島太郎、千鳥、龍など岡倉天心も
認めた彫刻が施されています。

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境内には堀江水準標石があります。明治時代に
オランダから招かれたオランダ人技師の
I・A・リンドは、江戸川・利根川の水位尺を定め
ました。現代測量の基礎をなしたといわれ、
現在の河川計画でも重要な役割を果たして
います。海抜ゼロ地点は、潮の満ち引きや
大潮などによって海面の水位が常に変化して
いるので、どのように計測で計ったのか気になる
ところです。

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青べか物語に、浦安(浦粕)は北は田畑、東は
海、西は江戸川(根戸川)、南は沖の百万坪と
呼ばれる広大な荒地がひろがり、芦や雑草の
繁った荒地と、沼や池や湿地と、その間を
根戸川から引かれた用水掘が通り、その先も
また海になっていた、とあります。山本周五郎
の小説の舞台となりました。現在も蒸気河岸
に、船宿・吉野屋があります。

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浦安の漁業町は旧江戸川から東に入った境川
に沿って広がっています。浦安役場跡や
旧宇田川住宅と旧大塚住宅の大きな家があり、
銭湯の煙突も辺りに見えます。昭和30年代
前半には川の両側に千数百艘も船が係留
されていました。この日もハゼ釣りを楽しむ
年配の方や子供たちが各一艘づつカヌーを
漕いで楽しんでいました。

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旧宇田川家は明治二年建築。米屋、油屋、
雑貨屋、呉服屋など商家として使用されたのち、
大正三年には浦安郵便局になりした。大戦後は
宇田川医院の診療所として使われます。

 

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旧大塚家は江戸時代末期の建築と推定され
ます。境川に近い方に土間、遠い方に客座席
がつくられ、境川をはさんで堀江側、猫実側
では間取りが対照的です。漁業と農業を営ん
でいました。

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船で江戸・東京に魚介類を運ぶには、旧江戸川
から新川へ入り、中川と荒川の対岸へ漕いだ
後、小名木川をさらに進んでから墨田川を少し
下ると、行徳河岸に至り、そこから更に西に向
かうと江戸の台所、日本橋河岸に至ります。

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対岸の北側には浦安市で一番古い神社、
豊受神社があります。鳥居の右手にそびえる
大銀杏や富士塚が境内にはあります。大きく
なった銀杏から垂れ下がった乳根は子宝と
安産のシンボルとして広く知られているそう
です。秋の味覚としてぎんなんを拾い食べる
のは、お酒とよく合うおやじのイメージでしたが、
銀杏は子供にも関係していたんですね。
初耳でした。

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境川に沿いさらに東へ向かうと浦安市郷土
博物館に至ります。入り口を入ると丁度この
日、ケンダマ世界チャンピオンの嶋寺克彰氏
の、けん玉検定と実演の幕が張ってありました。
2年ぶりくらいで、私も前回けん玉を貰って
います。建物の中は浦安の昔の様子を展示
していて、屋外では浦安の街並みを再現して
います。私は、おひるごはん前の時間でした
が、焼きたてホクホクのサツマイモを食べ
ました。手に握って収まるくらいの大きさ
だったので、お腹が膨れる感覚には
至らず、おやつの感じでした。

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