覇王の家

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桶狭間の戦いで捨て城となった岡崎城へ
家康が入場し、織田信長との同盟を結ん
で以来、徳川家康は東側の守りを一手に
長い間引き受けていました。
武田信玄と家康がほとんど同時に今川氏直
領に兵を入れて、大井川の両岸を隔てて
家康は信玄と国境を接するようになります。
家康は三河と遠江の一部合せて50数万
国の大名となりました。

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司馬遼太郎
覇王の家
新潮文庫

覇王の家 では三方原の戦いの前後から、
小牧長久手の戦いの後、豊臣秀吉が
44歳の妹を離別させ家康に嫁がせる、
大政所(秀吉の母親)を一緒に付けても
いいといったあたりの時代背景の箇所
(と家康の生涯が分かる前と後が少し
の分量)が書き記されています。

・本当に死にそうになった経験
 実は4度もあります。
1. 織田・今川の人質交換
2. 岡崎城入城時期に三河各地で起こった一向一揆
平定の際

3. 三方原の戦い
 武田軍2万数千に対し9千(うち織田援軍3千)。
敗走して浜松城に戻り、敵が雪崩れ込んで来
ないように作を練ります。偵察者が未着の
織田軍300を大援軍に見間違え、やはり3千だけ
ではなく援軍がいたと思い、武田方は浜松城
へ攻め込まなかったことで命拾いしました。
信玄が2月後に病で倒れ亡くならなければ、
徳川の領土は攻め滅ぼされていた情勢です。

4. 伊賀越(本能寺の変)
 本能寺で、明智光秀の謀反の知らせを聞いた
のは堺から京へ戻る途中の枚方。大阪と京の
中間あたり、現在も電車で約30分なので、
一時もせずに明智の軍勢が襲ってくる危険が
ありました。山岳の方へ、宇治から伊賀の逃れ、
伊勢の白子ノ裏に着いた。堺見物で同行して
いた穴山梅雪は枚方から別ルートを進みました
が、明智軍に捉えられ殺されています。

・人は皆違うから発想される
信長そとの息子たちと家康の嫡男、氏直、信玄、
勝頼、豊臣秀吉、北条氏政・氏直や様々な武将
の性格や考え方などが描かれ、戦国大名ははる
かに凡質だと滅びると主張しています。人間は
結局みんな同じ、というところからでなく、人
はみんな違うということに立脚して小説は書か
れていると思います。

・健康管理
家康が秀吉より先や関が原の合戦の前に病死
していたら、天下の形勢も違っていた。江戸
幕府を開いたのは長寿があってからこそ、健康
には特に気を使っています。

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