昔の自分を取り立ててくれた人を、その時点で秀吉はどのように思っていたのか?私としては想像できないこともありますが、自分が天下に立つには、信長に対する敬意も公に示すことでした。

ちょうど1年前の秋の季節に京都・紫野、大徳寺を訪れています。

織田信長が入京した際、秀吉を京都所司代に任じ、信長の父信秀を追善菩提するために建てられたのが、黄梅院です。
本能寺の変の後、信長は密葬され、黄梅院に築が加えられます。

破頭庭(はとうてい)と直中庭(じきちゅうてい)があり、紅葉が綺麗でした。秋の夕暮れ時の、少しずつ外が暗くなっていく時間、撮らずに楽しみます。

大徳寺にこの日の午後に着いた山内が明るい時間、総見院に先に寄ります。

信長の塔所として黄梅院は小なりなことから、信長公の法名総見院殿から名をとった総見院が大徳寺に建立されます。等身大、115㎝の織田信長坐像があります。香木で2体造像し、1体は本能寺で見つからなかった遺骨の代わりに火葬されたと伝わります。

大徳寺のほとんどの塔頭に茶室がありますが、

「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである」

信長の頃から仕えていた千利休は、秀吉から突如切腹のするように命ぜられます。大徳寺の三門の上層、金毛閣に利休の木造を造り祀った事が、原因とされます。

合戦をして領土を広げることに対して、平和的な外交手段で国を治め、他の大名たちと仲良くすることが、この時代、茶や茶器だと私は思います。
茶の湯が広まった結果、千利休の影響力が高まりすぎ、秀吉の権威を脅かす存在にまでなっていたことが理由ではないかと考えます。

総見院には茶室と茶筅塚があり、水を汲む掘り抜き井戸の井筒は、文禄・慶長の役の際に、加藤清正が船の重り(帰りの時の方が乗船人数が少ない)に使った朝鮮石と言われます。

もう一つ訪れた興臨院にも茶室があり、涵虚庭(Kankyo-tei)と号します。
こちらは中国の有名な蘇東坡の詩から名付けれました。

興臨院は能登の守護、畠山義総が創建。その後、前田利家により本堂屋根の修復が行われ以後、前田家の菩提寺となります。

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