海沿いを電車で走りながら、今日のことなど考えています。家から近いところにいることが多いですが、これからまた遠くまでも行ける様な気がします。この日は、小田原。ちょっと足を伸ばすくらいの少しだけ遠いところ。関東でも山から海までの距離が近いところです。

早川駅からのバスは土日のみの運行となっていて、駅前のタクシーも出払っていた平日の日、歩くことにしました。散策マップは午後になってから後で入手したので、道標を便りに歩き始めます。駅の周りは住宅地になっていて、間違った道の方から引き返すと、猫がいる様な、長閑な晴れの日差しの時間。石垣山一夜城の方へ左折すると、勾配がある坂道に入ります。

昇りはじめて程なく海蔵寺が道の正面にあります。こちらは小田原城の城主、大森氏頼が創建したお寺で、彼は扇ヶ谷上杉家の重臣として太田道灌と共に活躍した人物です。また秀吉の小田原攻めの際、堀秀政が陣を張ったところですが、彼はその時に病で亡くなってしまい、一時ここに埋葬されます。その後、彼のお墓は長慶寺(北之庄)、林泉寺(春日山)に建てられます。

車が、たまに上の方から降りて来たり下から追い抜いて行ったので、散策路に入ろう思いました。天気のいい日で、地元の人が農作業をしています。みかんの木が沢山、斜面に点在していました。キウイフルーツも一杯生っていました。道を登っていくと、民間の庭先が最後にあって行き止まり。来た道を分岐点まで戻ります。汗を掻いたシャツを着替えながら、間違えた分の往復30分はかかったけど、その分を取り返そうとかは思わないと考えました。道の分岐点の位置は歴史公園への昇る途中のまだ半分くらいでした。

石垣山一夜城歴史公園まで登ってくると観光で来ている人たちが多くいます。もともとは笠懸山と呼ばれ、豊臣秀吉が一夜にして城を築いたとされます。実際には80日掛かっていて4万人が作業にあたっています。石垣山一夜城が完成したときに、視界の方向にある樹を切り倒し、小田原城に籠る兵隊を驚かし、戦闘意欲を削ごうとしたとありました。

北条勢を何年にも渡って取り囲む用意のある石垣の総構えで、長期戦を戦える要塞となってました。実際訪れてみると芝生で覆われた面積が広く、城郭の規模も大きいものでした。東京ドームの1.2倍あって、それが山の上に築城されています。秀吉は淀の方や千利休も呼び寄せます。

二の丸、展望台、本丸、天守台を一回りした後は”一夜城 ヨロイヅカ・ファーム”で休憩です。ケーキは沢山の種類があって、外のベンチに座って“いちじくのタルト”を頂きました。大体の人たちが車に乗って訪れていましたが、徒歩の私は奥の方を抜けて降りました。途中、綺麗な蝶がいました。家の近くにいないアゲハチョウの標識。みんな同じのではなく違う種類も飛んでいます。

江戸城の採石場だった早川石丁場群です。切り出した石を運ぶ道や石丁場の様子が分かる石がここで発見されました。この石は運ぶ途中に沢に落としてしまい、谷の下にそのまま放置されていたものです。江戸城築城用の石材と考えられていますが、一夜城築城の際には地産地消の石が使われたのでしょうか?お城を建てる場所から、念入りに建てられた計画があったのかもしれません。

山を降ると早川を渡ります。水の流れが早く、川原にある石ころが大きく角ばってゴロゴロしている感じです。山と海が近いからでしょうか。山や両岸の木々、一日のこの時間帯、光があまり当たらない全体の風景が、暗めの色でした。

長興山紹太寺。小田原城主稲葉正則の開基、宇治万福寺の鉄牛和尚の開山です。七堂伽藍の整った大寺院で、黄檗宗独特の広大な庭園がありました。

本堂から石段と石畳を繰り返す山道を登ります。300段以上登ると、稲葉一族の墓の中に春日局の墓もあります。春日局は三代将軍徳川家光の乳母で、江戸城大奥の礎を築き、家光を支えた鼎の脚の一人とされます。彼女の父は明智光秀の重臣であった斎藤利三です。

長興山はしだれ桜が有名ですが、この時期葉っぱも落としていて、また春に見頃を迎えるでしょう。近くで工事をしてトラックが頻繁に通る紹太寺境内の外の車道を歩いて降ります。江戸時代にも階段を登らない運搬作業に、勝手口のような道が中へと繋がっています。箱根登山鉄道の入生田駅(いりうだえき)周辺は住宅地となっていて、箱根登山電車は1時間に何本も運行していて、乗る為にあまり待ちませんでした。

小田原城は訪れる前は、自然の地形を巧みに利用している様なイメージを持っていましたが、意外と平地の平な場所にある様に思われました。元はお城は平安時代に小早川遠平の居館として建てられました。戦国の乱世に北条早雲が大森氏から奪い、それから北条5代、約95年間落城しませんでした。永禄4年(1561年)の11万3千を率いる上杉謙信との小田原城の戦い、次いで永禄11年(1568年)の武田信玄の包囲を凌ぎ切った小田原城は、難攻不落、無敵の城といわれます。豊臣秀吉の小田原攻めの際には、侵攻を防ぐべく、小田原全体を総延長9キロの土塁と空堀で取り囲みます。

江戸時代になってから居城として歴代の藩主に引き継がれ、2度の大地震と天守閣の再建を行なっています。箱根の関所を管理する役割である入鉄砲出女(江戸に武器が入ることを防ぎ人質の妻子が諸国に戻ることを防ぐ役割)を担っていました。こちらで日暮れになってしまい、陸の線路が通る反対の新宿行きに乗りました。また次回も楽しみに山や向こうにも訪れたいです。

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