機転を利かすというが、時には恐ろしいことが起きます。

事前に綿密でないにせよプランを練る。信頼のおける誰かだけに相談する。下準備をする。

どんな些細なことでも、信長に感づかれようなものなら、彼は即座にその場を離れ、首謀者は首を撥ねることは明白。

人には色々な感情があり、本能寺の変の背景には諸説ありますが、私が思うところは、明智光秀に直前までそんな計はなかったが、中国地方への出陣の準備をする亀岡城に当日いて、織田信長が本能寺に宿泊することを知り、今なら打ち得ると悟ったところです。

本能寺に到着したのは5/29。本能寺の変が起こったのは6/2未明。

武田家が滅亡してからわずか2か月後のこと。武田勝頼の妹が嫁いでいた上杉氏も風前の灯となった、織田信長は天下統一が現実味を帯びた時に、本能寺で撃たれてしまいました。

京都にある本能寺に昨年、行ってきました。前日に安土城に行っていました。昔、最初に本能寺に気が付いたのは、学生時代の修学旅行の時。自由時間に新京極や寺町を歩いていると本能寺がここにあったのかとびっくりします。安土桃山時代は、別の場所にあったので、移転してきました。

創建は 応永二二年(1415)日隆が油小路高辻と五条坊門の間の地に建立、当初本応寺と号しました。

天文五年(1536)、比叡山(延暦寺)衆徒が法華衆徒を攻めるという天文法華の乱が起こりました。本能寺も約二万の兵で四条口を固めます。しかし法華宗は敗れ、本能寺も灰燼に帰して堺顕本寺に難を逃れました。その後、六角定頼に調停を依頼し、同一六年に和議が成立します。本能寺も堺より帰洛し、四条坊門西洞院(現、堀川高校裏)に再興されました。再興した日承は伏見宮邦高親王の子で本能寺中興といわれています。本能人の変(1582)はこの四条坊門西洞院の地で起こりました。

現在の地に移転してきたのは豊臣秀吉の都市計画によるものです。

本能寺の漢字ですが、デジタル変換の感じではなく・・・の能が用いられています。創建当時から幾たび(5度)も、火災に遭って来たのでヒの表記のない字が使われています。

境内の大寶殿宝物館には、織田信長公の肖像画があります。本能寺のものは髭がありません。愛用の霰釜(あられがま)や直筆の書状などが展示されています。意外とびっくりするは、信長は芸術的なセンスが高いと思わされることでした。

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