安土を再び訪れたのは、思っていたよりも早い時期でした。戦国の乱世の中にあって、織田信長が安土城を築城したのは、天下統一が叶った、平和な時代の居城と天守のシンボルとして、商業の発展の中心としてである様に、この前に来たとき思ったのです。

安土城の近くにある観音寺城が軍事拠点であり、合戦の際には兵が駆けつけられるし、こちらの城に籠ることが出来る。信長がこの地を選んだ理由だと考えました。

電車を降りてから、今回はレンタル自転車を借りることにしました。店先に行くと、丁度返却をするおばさんがいましたが、お店の人はいませんでした。呼び鈴を鳴らしても、人は出てきません。張り紙を見ると、用紙に記載し、料金を包んでポストに入れるとあります。そうですね。自転車を都会の感覚ではそのまま乗って行って盗まれてしまいます。隣の駅ぐらいまで遠いので、付近の街で見つかるということかな?と。

天気も良かったので、自転車日和でした。丈夫そうでギアが付いた自転車で、少しゴツく初めての感覚でしたが、10分くらい乗って慣れました。

街の道を走っていて、ギアで若者は登れる勾配が来て、田園風景の小川や水路沿いの道を抜けていきます。丁度稲刈りが終わっている田んぼとこれから刈る田んぼが混ざっている時期。目的地に近づくと、水田だった耕作地に植えてある作物は豆です。枝豆だと思います。帰りに駅近くの観光案内所にエビ豆というのが置いてあって聞くと、植っているのは枝豆です。

お城の本丸は現在の観音正寺付近にあります。そこまでの行き方は幾つかある様ですが、自転車を石寺楽市の駐車場脇に停めて、そこからは徒歩で登ります。民家が並ぶ坂を登ると日吉神社です。階段を上の方へずっと上がっていきます。地図には石段は1200段とのっています。かなり大変で私以外、下から登る人降る人にはすれ違わなかったです。

先程の日吉神社の奥の方に天満宮があって、帰る時、自転車が下に置いてあるので、戻って来て寄りました。城主の六角氏はこちらに館がありました。普段はここをずっと登って行くのは大変なので、麓にいたようです。

石段は急でずっと続きます。ここを下から敵軍が攻めようと思ったら無理だと思いました。石を運んだ道からなら攻められるだろうかと?今日の日程ではレストランや売店では食事できないと思ったので、パンを買って持って来ていましたので、休憩しながら登ります。かなり登って赤坂見附と地図にありに駐車場もあって、降りてくる人ともすれ違う様になります。

上まで来ると、仁王門です。観音寺城を検索すると、こちらの怖そうな仁王が出てくるのでお城のシンボルと思い違いをしていました。両脇の雄々しいは仁王像は山門を持たない当時の門固めです。

境内へ向かう前に尾根伝いに反対へ向かい歩きました。参拝客だけでなくランニング姿の人ともすれ違います。ここからの眺め。もし安土が日本の首都だったら、原風景も、ふるさとの絵葉書も、全然違うものだったと。山がちな日本や関東や大阪の平野に代表される日々見る景色。それが、ここからみると平地があって、その所々がポツンポツンと盛り上がって山になっています。

観音正寺は日本で唯一、聖徳太子が人魚のために開基した寺院です。人魚曰く「私は生前、漁師をしておりましたが、あまりにも無益な殺生を繰り返していたためこのような姿になってしまいました。日々、湖中を彷徨い苦しみに堪えております。どうか私を元の人間の姿に戻していただき、成仏させてください。」と聖徳太子にすがってきたのでした。成仏させる約束をし、先手観音の像を刻み寺が建立されました。

観音寺城の本丸へはお寺の途中の脇道に入って行きました。

>観音寺城は南北朝時代に砦としてその原型が見られます。それから攻防戦においては城は大概攻め落されていましたが、、、

>1467年の応仁の乱以降、明応5年(1496年)に美濃国の斎藤妙純が攻撃をしてから永禄11年(1568年)の織田信長の攻撃まで72年間落城しませんでした。

>本能寺の変

この日、伝本丸跡まで来て、お城について思っていたことがはっきりとは分からなかったですが。天正十年安土城とともに滅亡した。と看板には載っていました。

それから、時代が山城から平地の城になり、羽柴秀次の居城、八幡山城に移り発展していきます。

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