南海特急で極楽橋駅に着いてから、駅の天井を見上げる多数の方が描いたいのちのはじまり。はじまりの一歩を踏み出す前に生命力を感じてくださいとのこと。

初めての高野山。真言密教の聖地。ケーブルカーで上がるとバスに乗り換えですが、ここで雪が降って来ました。今シーズン初めての雪でした。12月下旬のもうすぐクリスマスイブの頃です。

高野山の西端にあたり、総門で表玄関の大門でバスを下車。以前は紀ノ川流域の道と有田川流域の道が交差する地点でした。仁王門は東大寺に次ぐ日本で二番目に大きな金剛力士で、阿吽で一対となります。口を開いた阿行(あぎょう)、口を閉じた吽行(うんぎょう)は空海の思想を表現しています。

道をまっすぐに東へ進むといよいよ、雪も本降りになり、足下も白くなりました。高野山は山中にある盆地。弘仁七年(816)空海は朝廷に高野山に真言密教の根本道場を建立すつことを願い出て、嵯峨天皇からの許可を賜ります。空海が高野山を開いた際まず整備に取り掛かったのが壇上伽藍です。伽藍とは僧が集い修行する閑静な場所という意味です。入定から86年後の延喜21年(921)に醍醐天皇から弘法大師の諡号を賜ります。朱色の多宝塔は真然大得により創建された根本大塔です。

空海は讃岐国の有力な豪族の家に生まれ、18歳で大学明経科に入学。毛詩、尚書、春秋左氏伝などを学び、24歳で出家を宣言します。31歳の時に唐への修行へ旅立ち、32歳で正統的な真言密教を継承。翌年日本に帰国します。37歳の時に真言宗を開く許しを得ました。43歳にて高野山を開創。

高野山の中でもとくに有名な金剛峯寺です。全国、約3600のお寺の総本山です。豊臣秀吉が亡き母の供養のために建てた青厳寺と、興山寺が明治時代に合併して金剛峯寺になりました。もともと金剛峯寺という名は、高野山を表す総称として用いられていました。

建物内は撮影が禁止で、襖の部屋や修行僧たちのご飯を炊いていた巨大な窯などがあります。豊臣秀吉の後継者であった羽柴秀次が主殿の柳の間に蟄居させられて切腹を待っていました。まだ、28歳。2340平方メートルの石庭、蟠龍庭(ばんりゅうてい)にも降り出した雪が積もっていました。無料で振舞われていたお茶が、とても美味しかったです。

恵光院。本日の宿です。宿坊に泊まるのも初めての体験でした。部屋に布団を敷いてもらったり、食事も持って来てくれます。鍵が廊下側の入口からかからないというのも、いいのかもしれませ。寛いで、夕食の前には本堂で阿字感の瞑想体験をします。今までしたことがあったか初めてだったのか、お坊さんのインストラクションに従ってしましたので、もう少し慣れていれば、リラックスして出来たと思います。この後は部屋とお風呂でゆっくり。その他、写経や奥之院のナイトツアーもできます。

翌朝は早起きして、朝の勤行。それに続き、隣の毘沙門堂で護摩焚供養が行われます。部屋に置いてあった木に願いを書いて、一緒に燃やしていました。間近で、着火から火がだんだんと大きくなる様子を見ていて、手際良さも感じます。私は初めてだったのですが、どっかの部族か東南アジアの様な印象を持っているものが、日本でも正式な儀式で行われているという、ものも知らなかったとういった感想です。

朝食を頂いた後、奥之院に出発。宿から近いんですね。一の橋からずっとお墓が続くんです。普通の家のお墓と思われるものも多いです。戦争で亡くなられた方々の供養や、どこ何処の企業の工場事故で亡くなられた方の為に建っていたり。歴史上の人物、武田家や上杉家のお墓も中に混じっています。一番石と云われるお江の供養塔があり、高さ6.6mあります。途中には服を着せたりお化粧したりカラフルなお地蔵さんも。一般のお墓は、戦国期から現代までの期間でしょうか。燈籠堂の奥に弘法大師の御廟があり、この日丁度、生身供が行われていました。その先は撮影禁止です。

帰り道に、珍しい外観の建物に立ち寄ります。八角形の摩尼宝塔。不安定な現世を宗教と芸術と生活を一体として、何物か永遠なるものを求めんとする希望と実践の塔です。大戦中にビルマ方面で亡くならた方を供養しています。日本ビルマ親善のため、ウ・ネウイン前大統領より釈迦像を、ビルマ高僧ウ・サンディマウンタ大僧正からは大理石獅子を贈呈されました。

帰りはゆっくりと普通電車で帰りました。都とどれだけ距離があって、山が遠くであるのか中々実感できないままでした。高野山の近くの九度山を真田幸村が脱失して、大阪城まで近かったと思います。雪は高野山を降ると積もっていませんでした。昨夜の本堂や部屋にはガスストーブがあって、暖かく過ごすことができました。一泊二日という短い時間でしたが、雪景色の高野山という景色が最初であったのもよかったです。

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