天正10年(1582年)6月15日、安土城は炎に包まれました。本能寺の変から13日後のこと。

放火した犯人は現在でも不明です。その当時、安土城は明智光秀の手に落ちていました。光秀の家臣が放火はしてないとして、織田家の踏襲を阻む家臣が火をつけていないとも思えない。といえます。

火により、安土城はその全貌がほぼ失われてしまいました。

築城は1576年(天正4年)。織田信長が岐阜城から移り住んだのが、1579年(天正7年)5月。わずか3年で城は完成したというだけでなく、完成から3年後に燃えてなくなってしまいました。

安土城の様子をする資料としては、お城に招かれた宣教師ルイス・フロイスの書『日本史』から、様子を知ることが出来ます。

日本人の著書や屏風画などからは、安土城が実働していた期間が3年しかないことから、その後の政権の移行とその思惑、記録の分量から、ほとんど様子が分からないでしょう。

東海道本線の安土駅で降りた冬の雨混じりの日。乗り換え駅で買った傘を出す程には雨は強くなく、駅前に数軒あった貸し自転車屋さんでやっぱり借りてくれば良かったと、住宅の合間にお寺がある付近を歩いていました。

事前に来る前に調べたところ、安土城から徒歩で1時間位のところに観音寺城があるので、出来ればここにも行きたいと思っていました。安土城までかなり歩いたので、今日は無理かなと思いました。

観音寺城は南北朝時代に砦としてその原型が見られます。それから攻防戦においては城は大概攻め落されていましたが、、、

1467年の応仁の乱以降、明応5年(1496年)に美濃国の斎藤妙純が攻撃をしてから永禄11年(1568年)の織田信長の攻撃まで72年間落城しませんでした。

そして織田信長が天下統一に向けて本拠地の築城に選んだのはこのすぐ近く。滋賀県内最大の内湖である西の湖が城の周りまで来ていました。

安土城の急な階段を登ります。入り口で杖を貸してくれていました。大手門を登り、武井夕庵から黒金門、二の丸跡、信長廟、本丸跡、天守後に到着します。杖は使わなかったのですが、織田家の家紋が入ったお土産を帰りに買いました。

織田信長の菩提寺である摠見寺。二王門(重要文化財)と三重塔(重要文化財)だけは火災を免れ現存しています。

安土城の店主を資料から復元したものが、大手門を外に出て徒歩10分の、安土城天主 信長の館に展示されています。1992年に開催されたスペイン・セビリア万博へ出展された原寸大のものです。著作権の関係で写真をSNS等に載せるのが禁止されています。

まだ未整理な部分から、改めてまとめます。安土城は主君が居住する平和な時代の始まりのシンボル。軍隊は旧観音寺城に駐屯していたと考えました。

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