車に乗って通っていると、あちらこちら、
ところどころに何々 城と標識があります。
沖縄島も1つであったのではなく、
南山、中山、北山の3つに分かれていた
14世紀頃は三山鼎立の時代でした。
中国との間では貿易が行われ、琉球国
北山王の怕尼芝(はにじ)・珉(みん)・
攀安知(はんあんち)の三王が、中国の史書
明実録に登場します。北山の時代、
天険の地に百曲がりの城壁を持つ
今帰仁城(なきじんぐすく)が築き上げら
れます。
しかし1416年に中山の尚巴志によっ
て北山は滅ぼされしまいます。その後、
北山監守が派遣されています。統一後、
南山が治めた地域には、監守は置いて
おらず、こちら北山は第二監守七世
従憲が首里に引き揚げた1665年
まで監守時代が続きます。1609年
には薩摩軍の琉球侵攻で、今帰仁城は
炎上したとされています。
現在は、世界遺産として登録されてい
ます。
到着する前、午前中は海から上がって
いたのでシャワーを浴び、シャツと海
パンも塩水を流してから、お昼寝して
時間が経ちました。昨夜既に閉まって
いた美ら海cafeで遅い昼食。それから
海を左手に見ながら、こちらまで着きま
した。
チケットを窓口で買って聞いてみると、
お城のガイドさん本日最終便が既に
行ってしまったということでしたが
途中からツアーへは、合流できれば
参加することも可能ということでした。
お城の中を上がっていくと、一枚岩を
乗せた堅牢な門をくぐります。昭和
37年琉球政府時代に修復された
平郎門で、今帰仁城の正門となってい
ます。琉球国由来記に、「北山王者、
本門、平郎門ヲ守護ス」として登場します。
そこからまた七五三の階段が急な中
ずっと登っていきます。米軍のジープ
が戦後間もなく登っていたので、車の
まま登れないように、また地元により
桜の植樹が行われました。在来種の平
べったいカタツムリが生息していて、
見せてもらいました。今帰仁城址の
一番高い当たりに徒歩で達すると、
大庭、御内原、主郭に行き当たります。
大庭の内、南側には南殿があったと
推定されていて、北の一段高くなった
ところには北殿跡とされます。その
北側から更に一段高い所は御内原とな
り女官部屋であったと思われます。
男子禁制の御語句嶽テンチジアマチジ
がありました。お城の中でここからが
最も眺望が良く、石垣や今帰仁村全域、
海の向こう遠くの島々まで見渡せます。
発掘調査の結果、主郭は13世紀終り頃
から17世紀初め頃までのものが見つか
り、中国からだけでなく、韓国製や
ベトナム製、タイ製の陶磁器も出土し
ています。
場内には他にもソイツギや
カラウカー、神ハサギ跡など様々な
神聖な場所があるのですが、祭祀の時
だけでなく、写真を撮影する前にも、
祈ることが必要であるというふうに
ガイドさんからありました。
お城の左方奥の方まで流れが見える
志慶真川。そこに添って外郭の高い石垣
が続く風景がありました。天然とその中、
聳え立つ人工物の大きなお城を、自分の
脚で立って展望できたことが、一番印象
に残りました。中山に北山が攻め落とさ
れた時、守護してくれなっかったと
テンチヂアマチヂ(上の御嶽のイベ)の神を
北山王攀安知が切りつけ、志慶真川に投げ
捨てた千代金丸(金装宝剣)が下流域の人に
拾われ献上されたと伝わります。
陽の光が跳ねる石垣が続く
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