ひめゆりの看護

戦争で傷ついて送られてきた兵隊を看護
するために、沖縄師範学校女子部と県立
第一高等女学校の生徒222人と教師18人
は南風原にある沖縄陸軍病院に配属され
ました。

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病院といってもそこは、丘の斜面に横穴が
40近く掘られ粗末な二段ベッドが備え付け
られていただけの施設でした。3月23日には
米軍の艦砲射撃が始まりました。

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米軍が沖縄本島に上陸し戦闘が激しくなるに
つれ、負傷兵は増えつづけ、生徒たちは寝る
間もほとんどないまま昼も夜も働き続けること
になりました。看護だけでなく、弾の飛び交う
壕の外での水くみや食糧の運搬、伝令、死体
埋葬などの仕事もしなければいけません。

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ひめゆり平和祈念資料館の前に来て、建物の
塀と道路と雲の白さと青空の青の色が、普段
私が目にする風景の色とは違っているように
思われました。

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入り口から奥にまっすぐと進むとひめゆり学徒隊
の慰霊塔があります。前でお参りしようとすると、
たくさんの献花が備えてありました。外の入り口
のところで、先ほど売っていたことを思い出して、
戻って買ってきます。

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ひめゆりと名付けられたのは、沖縄県立第一
高等女学校の「乙姫」と沖縄模範学校女子部
の「白百合」とそれぞれにあった校友会誌を
合わせて「姫百合」となりました。戦後ひらがな
で「ひめゆり」と使われています。

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1945年3月25日に予定されていた卒業式は
中止となります。29日になって卒業式をすると
いう知らせがあり、式は艦砲射撃の砲弾が落ち
るたびに地面が揺れる中、たった10~20分の
時間で行われました。「別れの歌」や校歌では
なく軍歌「海ゆかば」が歌われました。

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米軍が首里へ迫ってくると、陸軍病院も陸軍と
共に南部へ撤退します。歩ける患者を連れ、傷
ついた仲間を担架に乗せ、薬品や書類を背負い、
生徒たちは避難する住民のあふれる中南部へ
向かいます。病院壕の重症患者には毒薬を与
えました。南郷原には動かすことのできない
仲間の生徒2人を置いてきました。

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本島南部の伊原周辺にはガマと呼ばれる自然
洞窟がたくさんあります。こちらに移ってきた頃
の陸軍病院には薬も医療機器も充分になく、
病院としての機能はほとんど失われていました。

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慰霊塔の前にも沖縄陸軍病院第三外科壕跡
があります。当時、学徒を含む病院関係者や
住人などおよそ100名がいたそうです。

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6月18日の夜半、陸軍病院では学徒に
「解散命令」が言いわたされました。米軍が
目の前にせまり砲弾が飛び交う中、生徒たち
のほとんどは、どこへとも行く当てがない中で壕
を出させられます。海岸の方へ友達と一緒に
逃げたり、ソテツやアダンの茂みに身をひそめ
たり、以前いた南風原に戻ったり、自分で判断
して銃弾や火炎放射器が飛び交う中、行動し
なければなりませんでした。ひめゆり学徒隊の
それまでの死者はわずかに11名だったのに
対し、解散命令以後112名が亡くなっています。

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暗い日の光があまり届かなく湿ったトンネルの
中に長くいるのはとても気が滅入ることで、
そこで戦争で傷を負った人たちが血を流し
呻き声をあげたり、心痛な仕事です。
ガマに移ってからも狭い洞窟の中で沢山の
人たちがいて、身を潜めながら、集団自決を
促されたり、生きている気がしないと思います。
解散命令があり、若い女の子が着の身着のまま
で武器が飛んでくる中へ投げ出され、どうして
いいかも分からず、犠牲になってしまったと。
兵士ではないので、命を最後まで守ってあげる
ようなことも考えてあげることは無理だったの
かとどうかと感じました。

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