京にあった大仏

京都駅から七条通りを東山の方向へ向かうと、
三十三間堂と道路を挟んで、豊国神社があり
ます。大阪城を築城した豊臣秀吉は東山の
阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されました。

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秀吉は遺言で、自身を"新八幡"として祀るように
命じますが、朝廷からは"豊国乃大明神
(とよくにのだいみょうじん)"の神号が与えられ、
遷宮の儀の後、社は豊国神社と命名されます。

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生前、東大寺の大仏より大きい6丈3尺の大仏を
建立します。約19mの高さです。小田原征伐を
挟んで天正19年(1591年)に大仏殿の立柱式が
行われます。式は千僧供養会で行われ、天台宗、
真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、
浄土真宗(一向宗)の僧が出仕しています。以後
豊臣家滅亡まで千僧供養は毎月行われていたと
いうことです。

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大仏は奈良や鎌倉が有名なので、京都といって
大仏のイメージを思い描く人は意外と少ない気は
しています。

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京都を訪れて寺社仏閣以外、食べ物や和服での
街歩きなど、何をして楽しむのか若い人にとっては、
と思います。年中行事を調べて行ってみたり、外国
からの方と話しながら歩いて観れる街の風景もいい
と思います。

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大仏は、計画された銅造ではなく木造、(漆膠)
造られます。しかし慶長伏見地震が起こり倒壊
してしまいます。大仏殿の建物は倒壊を免れ、
善光寺如来(善光寺式阿弥陀三尊)を本尊に
招き入れます。しかし秀吉の病の祟りではない
かと噂され、信濃に戻されます(1598年)。

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秀吉が亡くなったその翌年に、豊臣秀頼は銅製
の大仏を再建しようとします。その建立作業中に
流れ出た銅に引火してしまい、全国六十六州の
巨木を集めて建立した大仏殿も全焼してしまいます。
1608年に大仏殿は再建され、大仏も金箔を押す
ところまで1612年に完成します。

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方広寺の命名の経緯・時期は不明で、経典
(大方広経)から採ったといわれます。豊公
(ほうこう)の名を託したとも考えらています。
江戸期に庶民の間では"大仏"の名で親しまれて
いました。

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秀頼が再建を進めた大仏は開眼供養の日を
待つばかりとなっていましたが、ここで有名な
鐘銘事件が起こります。

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梵鐘の銘文:「国家安康」「君臣豊楽」の文字が
彫られています。徳川家康の家と康を分断し、
豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するもの
であると捉えられてしまいました。一般には豊臣家
を攻撃するため家康が崇伝らと画策したとされて
いますが、豊臣の徳川に対する呪詛を認める
指摘もあります。

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現在も豊国神社の鳥居右手に鐘があります。昨年
の旅の私記録で画像は映してなかったのですが、
"国家安康""君臣豊楽"の文字があると検索すると
見つかります。事件は知っていたのですが、小さく
書かれた文字を確認することをしていなかった
です。耳塚と細い道を奥の方へ入っていくと、
大仏殿の中心部分の遺構が大仏殿跡緑地と
なって残っています。

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