京の街中の城

関ヶ原の合戦の翌年(1601年)、家康は
西側の諸大名に二条城の築城を課しました。

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堀川通りと御池通りの北に位置する
押小路通りに面したこのお城の位置は、
1569年に織田信長足利将軍、義昭
擁立した際の将軍のための施設でした。
京都を追われた後、空き家になっていまし
たが、徳川家康が接収しました。

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私が訪れた日には、修学旅行生らしき
学生服を着た若者が入り口付近にも、
二の丸御殿にも多くみられました。

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残念ながらこの御殿では、廊下は
うぐいす張りの廊下と言われていて、
混じっていた敵の刺客が廊下を早足で
歩くと、床板から音が鳴るように出来て
いるのですが、内部が大部分改装中とい
うことで、部屋の中が多く見られなかっ
た点と、そういうわけでそこの間を大勢
の生徒が早足で通過していったという点
がありました。

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改築に募金等で協力しているという方々
と、何をしているのか、私も参加できるの
かを聞いてみたのですが、男性や女性の
着物を着て殿様になる・拝謁するですか、
大政奉還の場面ですか、体験していまいた。
カメラの撮影付きの様でした。
(一般の人は二の丸御殿内は撮影禁止ですの
で私がそこを撮った写真はここにないです)

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入り口の車寄せから靴を脱いで入ると、
武家風書院造で6棟、33部屋で畳が800畳あ
まりある広さです。狩野一門などの
桃山美術の粋を伝えています。
(築城400年記念 展示・収蔵館で見られます)

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6棟:

遠侍
来伝者の受付、訪れた方の身元の照合なども
おこなっていました。

式台
幕府の重役が大名を迎える応接などに使われ
毎回の大名からの贈答品をここで受け取り
ました。

大広間
関ヶ原の合戦の後から使えた外様大名の
時に使われました。ここの一の間において
十五代将軍徳川慶喜は諸藩の重臣を集め、
大政奉還(1867年)を発表しました。

蘇鉄の間

黒書院
親藩大名・譜代大名のときです。

白書院
将軍のプライベートな空間、寝室や居間です。

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廊下を一周してきて外へ戻り、庭園の方へと
当日は天気の中、歩きました。
現在の旧桂宮御殿を移し建てられた本丸御殿
は非公開で内部には立ち寄れませんでしたし、
堀の内側ですがどこを歩いているぐらい
スペースがあるように感じられます。
(元の五層の天守閣は雷で焼失してしまい
(1750年)、市中の大火事により本丸殿舎など
も焼けてしまいました(1788年))

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向かった二の丸庭園は後水尾天皇御幸の為に
増設された、小堀遠州の作と伝えられています。
*ブログ>
金地院(海洋の宝船)
桂離宮(落ち着いた所から眺めて:説もあり)
二条城展(黄昏の空):12.09 その他)

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清流園は角倉了以の屋敷から庭石を約800個
譲り受けて、銘石300個を新たに加え作りま
した。了以は若くより御朱印船で東南アジア
へ7回の渡航を成功させ、また高瀬川、
天竜川、富士川など治水事業の先駆者となり
ました。

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豊臣秀吉が亡くなった翌年には家康は伏見城
に入り関ヶ原の戦いの後の伏見城の焼失後も
修理したように、二条城はきらびやかな目的
であったとも言えるかもしれません。
徳川家光が三代将軍となった1623年の後、
伏見城は取り壊され、本丸御殿は二条城に
遺構されました(ものがオリジナルです)。
増築され二条城は1626年現在の規模になります。

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